ご自分のブログタイトル

I WAS NINETEEN.

※アラサーです。

I WAS NINETEEN.

ブログタイトルを「19歳、世界は私のものだった。」から「I WAS NINETEEN.」に変更してみました。

 

込めている思いとしては、若かりし自分と今現在若い方々への慈しみとちょっとばかしの嫉妬って感じで、同じなのですが、若干痛々しさが減ったかなと思います。

 

ググったら、同タイトルのふるーいドイツ映画があるようです。

 

かなりマイナーっぽいんですがどっかで観れるかな?

 

 

 

19歳といえば、ラストティーンとか言ってはしゃいでいる大学生の一人でした。

 

「19歳だって?世界は君のものだ!」

 

と、ホームステイ先の隣人に言われましたが、その意味するところは、まだ何も知らない、狭い世界の中の主人公だね、だからなんだってできるよと、そういうことだったのかなと、今になって思います。

 

社会に出ると、人との関わりが縦にも横にも密度的にも段違いに増し増しで、自分の良心とか、常識とか、信じるべきものとかが、ひっくり返りそうな(あるいは本当にひっくり返ってしまう)出来事が、容赦なく降り掛かってきて、本当に皆よく耐えているよな、あのころ見ていた大人たちも皆例外なくそこで耐えたり耐えなかったりしながら生きていたのかな、と思って、19歳の自分なんて別人だったんじゃないかという疑念が湧いてやまない、紛うことなき大人に無事なりました。

 

どの大人も皆、かつて19歳だったという事実は、素敵なことです。

(これは比喩表現です。)

 

想像の範囲について。

想像できる範囲が相手と似ているということは、コミュニケーションを円滑に進めるための重要なポイントだと思います。

 

例えばわかりやすい例で言うと、「同業者と仕事の話をする時」と「異業種の人と仕事の話をする時」の会話の進め方は明確に異なります。

同業者間においては大前提とされることが、異業種の人が相手だと説明が必要だったりしますし、あるいは、話題によっては、そもそも異業種の人に対して気軽に持ち出す内容ではない=話すべきではない、という判断になる場合もあるでしょう。 

 

こうした場合に、もちろん異業種の人に対して「話さない」ことで意地悪しているわけではなくて、「言ってもわからないだろう」「長くなるだけだからやめよう」「話したところで興味ないよなあ」などと考えた上での「話さない」という選択、すなわち、お互いの想像の範囲が異なっていることを鑑みた優しさであるわけです。

 

そしてこれは、なにも仕事の話をするシチュエーションに限ったことではないと私は思っているのですが、どうもコミュニケーションが悪い方向に向かう時、この「想像の範囲の違い」によるズレ?が関係しているような気がします。

 

想像の範囲が相手と似ている時、基本的にコミュニケーションはかなりスムーズです。

極端な話、想像の範囲が相手と全く同じであれば、そこには共感しかありません。

「彼ってこうこうこうでさ、ひどいよね?」

「わかる!超わかる!」

簡単です。

 

でも自分がちょっと別な視点や多角的な視点を持っていたりすると、「いやでもこういう側面から見るとこうだし…」「そっちも一理あるなあ」となったりします。

 

そういう時に説得力ある説明で納得させたり、あるいは新たな視点を提示したり、さらには反論したり、というのが上手くできるといいんですけど、どうしても、相手の想像の範囲の外から説明するというのはエネルギーを使うので、結果「わかる〜(心にもないが)」みたいな感じになったり、「そうかもねー」と曖昧な返事になったりして、相手から見ると「何考えてるかわからない人」が誕生します。

 

そういうことを繰り返して、人間関係は、想像の範囲が近い人(=何考えてるかある程度わかる人)同士でコミュニティを作るようになっていくような気がします。

居心地がいいからです。

 

でもたまに、「どういうコミュニティでも上手く渡り歩いている人」というのもいますね。

これは、相手の想像の範囲を想像してソツなく対応できる、ある意味天才な人です。

この手の人は、どこに行っても無難なやり取りができるため、友達は多いのですが、「皆本当の私をわかってない…」「というか本当の私はどれだろう…」みたいな、若干の鬱モードというか、結構孤独そうな感じがします。

 

 

長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、想像の範囲が広いと素晴らしいとか、相手の想像の範囲を想像すべきとか、そういうことではなくて、

想像の範囲は人によって異なるということを、とりあえず認識しておこうよ

ということです。

 

場全体(全員)にこの認識があるだけで、ひとまず、

そこは戦いの場ではなく、解決に向かってコミュニケーションを図る場である

っていう雰囲気になります。

 

主張も攻撃ではないし、「この人よくわからないこと言ってるけど、自分には見えていない部分が見えていて説明に難儀しているのかも…」と想像する優しさも持つことです。

 

そのほうが、似た想像の範囲の人たちと気持ちよく固まるより、よっぽど発展的で建設的だと思うのですが、どうでしょうか。

 

セリアの【とにかく洗いやすい保存容器】、いい感じです。

先日、ちょっと前から巷で話題になっていたセリアの「とにかく洗いやすい保存容器」を購入してみました。

 

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ホワイトとブラックがありましたが、ホワイトのほうを購入。

 

サイズは大中小3種類あって、私のは一番小さい90mlのものです。

少量残ってしまったおかずを入れたり、お弁当に付けるおかず入れとして使ったり、何気に重宝するサイズ感です。

 

そして、3個セットなのでお得感があります。

 

 

どうしてとにかく洗いやすいのかというと、

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これです。

フチにあのウザい溝がない構造。

 

普通の保存容器だと、

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このフチが洗いづらい且つ水が溜まってなんか不衛生なんですよね。

 

 

いい買い物をしたなあ。

他のサイズも欲しくなりますね。

 

 

今日は雨なので引きこもりです。

午前中に買い物行ってくるんだったと後悔中。

おとなしく勉強しているか。

発達障害と、不要なことをしない才能

自分にとって不必要なことを徹底的にやらないっていうのも、ある意味才能の一つだなあと思います。

 

私の知人夫婦で、発達障害の小学校低学年の子供を持つ方がいるけれど、彼らの疲弊ぶりを見ていると「そんなに疲弊しなくてもいいんじゃないか…」と思ってしまったりすます。

 

だって、子供だって自分とは別の人間で、親の願望を叶えるための道具ではないと思うので。

 

そこの家は、お姉ちゃんが発達障害で妹は普通なのですが、妹ちゃんが「親の言うことが絶対」であるのに対して、お姉ちゃんはすでに自分の基準で行動しているように私には見えます。

 

親の計画に反して、お姉ちゃんは全然勉強もしなければ自由に動き回って不可解な行動ばかりですが、たまたまお母さんが課した課題を私が見てあげていた時、「頭が悪くてできない」のではなくて「考えればできるのにやりたくないからやらない」という状態であることに気が付きました。

 

そういえば、ボードゲームのルールなんかはちゃんと理解するし、科学館なんかで楽しげなこととくっつけて説明してあげたら興味を示すし…

それなら、しばらく放っておいてもいいんじゃないかと思ったんですよね。

 

 

 

自分の話になってしまいますが、私は比較的「親の言うことを聞くいい子」で、学生時代も成績が出るならとりあえず頑張るか、という意識を持っていましたけれど、今考えるとそのいっときの成績が人生になんの意味があったのか?

私よりできる人はたくさんいるし、私に一体何ができるというのか?

と、信じていたものが急に無意味に思えて迷走した時期がありました。

 

逆に、2つ下の弟は親の言うことを聞かず、食事中に歩きまわったり学校のテストをあえて珍回答で埋めたりするような子供で、たぶん今も集団の中で与えられた仕事をすることには向いていないのですが、(実家が自営業なことも影響してか)圧倒的に経営の才があります。

 

「自分にとって不必要なことはしない」とか「奇想天外なことを言う」というのは、反感を買ったり、「こっちはきちんとやっているのに」と恨みを買ったり、時には人を傷付けたりもするかもしれません。

でも、それをものともせずビジョンを優先できるということは、ある種それだけで一つの才能なのです。

(人を傷付けることを肯定しているわけではありません。)

 

うちは家族も親族もだいたい商売系で雑なファミリーなので、弟のちょっとおかしなところが面白がられていて、弟自身もそこまで生きづらさを感じなかったと思います。

 

 

だけどその知人のうちは、「この子は何をしても無駄」とすでに両親がその子を諦めてぞんざいに扱っているふしがあり、普段あんまりこういうこと言わないんですが、なんだか可哀想だなと思ってしまいます。

あの子の才能を、伸ばしてあげなくちゃならないのに…と。

(子育てもしたことないのにすみません。)

 

とはいえ両親には両親なりの「正しさ」があって子供と接しているわけで、本当に人間って難しいですね。

 

英日翻訳勉強中。

たまたまちょっとした(本当に、1つ500~800ワードぐらいの)翻訳をさせていただく機会が何度かあったことをきっかけに、ずーっと「私なんかには無理だ」と心の奥底に無理やりしまいこんでいた翻訳家の夢がちょっと再燃しています。

 

それで、ともかくお金をかけずにやってみようといろいろ検索していたら、こういうサイトを発見。

斉木学園時事英語翻訳コンテスト/過去問

http://www.honyaku-contest.com/backnumber.html

 

この「斉木学園」自体は山口県にある予備校および学術英語を教える塾のようで、そこでこういった翻訳コンテストが行われているのは以前から知っていたのですが、通常有料で販売されている過去問(解説・講評・模範解答つき)が2013年度版だけお試しで無料DLできるようになっていることに気が付きました。

 

これの解説が、小手先のテクニックじゃなく至極論理的で、「わかりやすい」というよりは「なるほどなあ」ととにかく感心する感じ。

各回の最後についている総評も、現代の翻訳における課題とか?問題提起が多くて息抜きになりつつハッとする部分多々。

 

今はこれをプリントアウトして、

まず訳す

解説を読む

訳例と自分の訳を突き合わせて「今の自分からは到底出てこなさそうな表現」をインプットする

 

という流れで少しずつ取り組んでいます。

 

 

私の訳はまだまだ稚拙なんですが、たまに「これは私のほうがいいんじゃない?」というのがあったりすると嬉しくなります。

 

解説を読んでいたら、翻訳活動をする上で、英文には「構造上の問題」と「機能上の問題」があるとのこと。

うーん、わかるようで、わからない。

「そうそう、そうだよね」と思えないということは、私がまだそれがわかる段階まで行けていないのでしょう。精進あるのみですねえ。

28歳、ブログをスタートしてみる。

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はじめまして。みじんこと申します。

このブログにお越しいただきありがとうございます。

 

結婚を機に退職しまして、現在は式の準備をしながらもぼちぼち時間があるので、ブログを始めてみることにしました。

ブログの趣旨は特段決まっていないのですが、心に移り行くよしなし事を、そこはかとなく書きつくって行こうかと思っている次第です。 


 

ブログタイトルは、ちょうど19歳の頃、イギリスで語学研修を兼ねたホームステイをした際に、隣人の陽気な黒人さんから言われたことが元になっています。

 

「19歳だって!?世界は君のものだ!」

 

本当に、当時、世界は私のものでした。

すべてが私を中心に回っていて、それでも私のことを認めてくれる人たちがいて、私は自分が世界を回しているつもりでいたけれど、それは、若さによる周囲の許しがあったからである。。

 

あれから10年近く経ち、さすがに世界は私のものではないと気が付いている今。

19歳の私への慈しみと、ちょっとばかしの嫉妬を込めて、こんなタイトルにしてみました。

 

さて、深い(?)意味を込めたタイトルに反して、ニックネームは思い付きで適当に付けてしまいました。

「みじんこ」なんて人生で一度も呼ばれたことがないので自分でもかなり変な感じなのですが、これからここではみじんこと名乗ることにします。

 

好きなことは、旅行、建築物を見ること、寝ること、読書。

雑文・駄文にお付き合いいただけたら幸いです。

 

どうぞよろしくお願いします。